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題名:  ふちなし帽
原題:  Die Muetze
著者:  トーマス・ベルンハルト
訳者:  西川賢一
発行:  柏書房 (2005/08/10)
価格:  \2,800
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<私は狂いたがっている。しかし私はまだ狂わないでいる。>
 
 トーマス・ベルンハルト(1931-1989)が生をうけたのはオランダの地、母はオーストリア人のシングルマザーでした。故国に戻った彼は戦時を含む1943-47年にザルツブルクのギムナジウム、1952年から1957年には、その名を冠した管弦楽団で名高いザルツブルク・モーツァルテウム(音楽だけではなく演劇科などもある総合芸術大学)で声楽と演劇を学んだと言います。卒業後、ただちに戯曲を始めとする創作活動に入ったと言うから、やはりただものではありません。
 氏の代表作はやはり、故国オーストリアと罪を自覚しないその国民たちへの呪詛に満ちた『消去』(みすず書房刊)ですが、解説によると「自伝5部作」という大変なシロモノが未訳だそうで、それが訳されたとしても読み通す自信があるかどうかはまた別の話としても、興味深いところですね。
 本書は主として1960年代に書かれた短編を訳出したもので、「散文集」(1967)、『森林限界で』(1969)の短編集二冊分を全訳したうえで巻頭の一編だけをプロローグ代わりに他の作品集から持ってきたもので11編が収録されています。短編に凝縮されたベルンハルト世界は、長篇に比べてその克明さ、真面目さ、あるいは病的な世界すらデフォルメされ、むしろ独特のおかしみが強調される結果となっています。ほとんどが一人称で描かれ、「私」はたいてい閉鎖された世界であちこちの壁にぶつかり、うろうろすることになります。
 もちろんこの著者に関してはストーリーを伝えようとしてもほとんど無意味ではあるのですが、そこは凡人の悲しさでいくつかの作品についてスジとともに紹介してみます。
 
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「ヴィクトル・ハルプナル」
 <冬のメルヘン>と副題がついている。そんな長閑なもんかいな。これは悲劇的状況なのかお笑いなのか。しかも「賭け」としてはそんな結末もありなのか…。
 
「二人の教師」
 インスブルックから転任してきたその教師は、生まれつきの不眠症だと言うのだ…。そりゃ確かに悲劇なんだけど、こういう時の最適読書として挙げられた「おそれとおののき」「あれか、これか」あたりにしても、どうも馬鹿にされているようでありますな。いや、深刻な筈なんだってば。
 
「ふちなし帽」
 例によって、どうにも現実離れした学問に囚われてしまった人物が主人公となります。この場合は林学の研究なのですが、もちろん常識的な学問ではなさそうです。ベルンハルトにとって研究とはどうやら自分の回りに壁を築くことのようで、この「狂人」は無意識のうちに自己世界の境界から出られなくなってしまうのです。本日のキーワードはもちろん「ふちなし帽」、うっかりそれを森の中で拾ってしまったのが間違いだな。肉屋、木こり、農夫がかぶるような帽子。持ち主を捜さないではいられないけど、見ればみんながかぶっているじゃないか、これじゃおれもかぶらざるを得ないじゃないか…。
 
「喜劇? 悲劇?」
 観劇に出掛けた私は直前になって気が乗らないままフォルクス・ガルテンをうろうろしていると、女装の男に話しかけられた…。演劇界 出身の著者らしい視点とも言えそう。
 
「ヤウレク」
 この題名は架空の地名だけど、ポーランド的な響きを持っていますね。ウィーンからこの辺境ヤウレクにある、叔父が経営する採石場に勤めた私。 要はぼんくらな甥がコネで入ったわけだ。ところが私はここで「露命をつなぐ」ため、必死になってジョークをひねり出している始末なのだ!
 
「フランス大使館員」
伯父は所有する森を視察しているとき、すばらしいドイツ語を話す外国人の若者と出会い、なんと「森林経済学」の話で語り合えたと言うのだ。 例によって、極端で怪しげな学問、それで「理解し合える」と思いこむことの不毛さがたまりませんな。
 
「インスブルックの商人の息子が犯した罪」
 ゲオルクは二目と見られぬほど不格好で性格もひねくれて、役立たずで足手まといで家族も早く致死の病にかかってくれと願わずにはいられないほどだったが、臓器だけはだれよりも頑健で、商家の子にはまったくそぐわないのだ。私たちはウィーンの大学で出会い、ルームメイトだった…。
 瞬間うそ寒くなるほどの強烈な「悲劇」です。獣性というものがすべての人に潜んでいることを思い出させ、「消去」に至る道程にある作品と言えるでしょう。
 
「大工」
 妹を虐待しつづける兄が、釈放されて弁護士の私に礼を言いに来た。それもまた妹と連れだってなのだ。社会不適格な大男にとってこの世はなんと 生きにくいものだろう。人間にとっては狂気と拘禁、それが正しい道なのだ!
 
「クルテラー」
 模範囚クルテラーに釈放の日が近づいていた。拘禁生活から娑婆に無事適応できるのか。彼は囚人仲間に「寓話」を話し続け、娑婆に出たら自分がそんな話も書けなくなる、何者でもなくなるという想念に囚われる。
 しばしば言われることではあるけど、「生涯で最も恐ろしい日」、それは「自由」が目の前に現れる日なのだ。創作とは自由への足がかりであったはずなのに…。
 
「イタリア人」
<断片>と副題がついている。私の父の棺の前でイタリア人は自分の資産や事業について滔々と述べ立てていた…。 その園庭には終戦の二週間前に殺害されたポーランド兵の遺体も埋められていた。「消去」の一シーンを思わせる、生死が重要なんてのは 建前に過ぎないってことですね。
 
「森林限界で」
晩方遅く、娘と若者の二人連れが当地の料理旅館に投宿した。私は食堂でフィアンセ宛の手紙を認めていたが、 その二人連れに注意を奪われてしまった。翌朝早く、若者だけが出発した…。これはギリシャ悲劇的とでもいうか、著者にしては美しすぎだったりして。


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