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題名:  蜜蜂 (初版)
著者:  中 勘助
発行:  筑摩書房 (昭和18年5月30日) 8000部
定価:  2円22銭+特別行為税相当額8銭
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 本書は中勘助の「随筆もの」の代表作であり、兄嫁との心の交流を描いた美しい作品で、現在では岩波文庫にも収録されています。 初版の上梓は戦時中、しかもすでに劣勢であったはずの昭和18年でありながら、クロス装ではないもののとりあえず厚紙の表紙が付き、 以下に示すようにおそらく著者の手になる装画も入ったという意外と贅沢な造りです。
 ただその内容には当時の「大本営発表」が何カ所か入っており、この部分が戦後の岩波文庫版ではことごとく削除されているのが気になる ところなのです。

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(1)上は初版本、巻頭の歌とおそらく著者自身の手になる木賊(とくさ)の口絵が掲げられています。下は岩波文庫表紙カバーです。

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(2)初版89〜90ページ、文庫版62ページ。なぜ、姉が突然「泣きたくなった!」になるのか。 中が新聞の大本営発表を音読していると感極まって泣くのですね。ここでは珊瑚海海戦の記事部分が まるまる削除されているため、その機微が文庫版ではよくわかりません。

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(3)初版120〜121ページ、文庫版82ページ。中が「軍国主義者」であったと述懐する部分。しかし「近頃は知らないけれども」と 初版の段階からさりげなく付け加えられています。兵士たちが戦地で労苦を嘗めることを想うこと=軍国主義者ではないことに 気づき始めたのでしょうか。

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(4)初版206〜207ページ、文庫版132〜133ページ。「あなたがべそをかく話」としてガダルカナルをめぐるソロモン海戦の報道。文庫ではそっくり抜け落ちている。 なお、これ以前、6月11日の部分に「おしらせ」としてあのミッドウェー海戦の大虚偽戦果発表が 掲載されています。もちろん中をはじめ国民は何の疑問も抱かなかったのでした。

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(5)初版184ページ、文庫版119ページ。ここは中勘助の随筆ファンなら涙なくしては読めないところ。あの「妙子」さんの死が伝えられます。しかし、中は奇妙に冷静です。 心理的な考察はここのテーマではないから省略するけど興味深いところですね。なお、初版本は固有名詞が伏せ字だらけで誰のことやら わからず感興が削がれます。縁者もみな存命中で仕方のないところですけど。

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(6)最終部分。上3枚は初版232ページ〜奥付、最下図は文庫版146ページ。文庫版は「わが泣く涙…」の詩で終了していますが、初版では「おめでたう」として、 ソロモン海域(ガダルカナル攻防戦)の戦果を2ページ以上にわたって綿密に 引き写しています。もちろん彼が信じた大本営発表は虚偽の数字であり、すでに海軍は再起不能の状態に追い込まれていたのでした。

 戦後になってこうした削除を行うことも、著者の権利のうちかも知れません。作品を姉に対する感情を語ることに限定したということもできるでしょう。 しかし、削除された大本営発表に一喜一憂した庶民の姿もまた記録されてしかるべきだったのではないでしょうか。戦地で苦難 の中にある同胞を思うことは恥でも何でもない、当然のことです。その自然な感情を利用し、誘導しようとする者を見抜き、警告すること。 あえて言うなら、その状況を作った戦争という行為を告発すること。それが時代の凝視者である文学者の務めなのです。



→参考:岩波文庫版『蜜蜂・余生』


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