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題名:  愛国寶典
編者:  大日本雄辨會講談社
発行:  同上 (昭和13年・1938)
      (少年倶楽部誌別冊付録)
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 昭和12年(1937)に勃発した日中戦争(支那事変)は12月の南京攻略にもかかわらず、中国国民政府は首都を重慶に移してあくまで徹底抗戦の構えを崩さず、 長期戦の様相を呈していました。 旧皇軍首脳は口では戦線不拡大を唱えつつも、現状維持のためだけでも多大な兵力を投入せざるを得ず、結局は蒋介石軍を追いかける形で 昭和13年には武漢三鎮と呼ばれた要衝の一角、漢口攻略を目指すことになります。
 これに伴い銃後では愛国教育=侵略肯定教育が、少年雑誌などのメディアも巻き込む形で遂行されていました。 ここで紹介するのは当時の少年誌の付録であり、読むほどに「期待される少国民」の姿が浮かび上がってきます。それは 「軍の押しつけ」ばかりではなく、マスコミあるいは国民も望んでいた姿とも思えるのです。
 特に保存の意図もなくわが実家に伝わったものなので傷損著しいのですが、以下、その内容の一端を紹介したいと思います。

AIKOKU1
(1)「愛国寶典」の「効用」が記されたページ。隣は「君が代」を聞くときの心得。国歌・国旗になぜ敬意を表さなくてはならないのか。 それは天皇の代わりだからである。

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(2)目次の末尾部。金子光晴氏がゲルマン魂を鼓吹しているらしいが、残念ながら欠落しております。

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(3)「大本営発表」の赫々たる戦果のページ。130万人が戦死だけか戦傷も含めるのか文脈はぼかされているが、 遺棄死体だけでも一年で51万というのは誇るべき数字だったのだろう。正規兵以外の便衣(ゲリラ)や非戦闘員も含めればまさに殺しまくった というところ。それが当時は「勇猛な皇軍」の証しであり、発表される数字に国民は沸き立ったのだ。殺人者の裔であることを忘れてはならない。それにしても 投降兵も多かったと思われるが、「捕虜」が全く計上されていないのも慄然とせざるを得ない。

AIKOKU4
(4)「満洲国」成立後6年経過したのだが、承認国はわずか7か国に過ぎなかった。しかもドイツは日本に対し必ず一歩置いている。 逆に日本は金子光晴氏だけではなく、ドイツが好きで好きでたまらなかったのに。
 なお、小さくなった石鹸をみかんの網袋に入れて使うのは近年までやってましたね。役立つ智恵も入っているのがこの本の飽きないところ。

AIKOKU5
(5)現在でもなお首相始め議員連中が参拝するのしないのと騒ぐ「靖国神社」。「皇国のために命を捧げた方は老若男女を問わず 祭霊として祀られる」とあります。また、例大祭には勅使もお迎えするそうで、結局はどれだけ「天皇に尽くしたか」が基準となるわけですね。 むろん戦死者を悼むことは国民として当然だけど、祭政分離 以前に、戦争責任者である天皇と絶対天皇制に立脚した施設に敬意を示さねばならぬのも問題ですな。

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(6)これはまた超ナイーブな侵略肯定論。支那人は資源を持っていても開発できないから占領してやった。 占領地にある資源は自由に使って良いのだからどんどん侵略しなければならん、という論旨でしょうか。ラスコーリニコフも真っ青ですねー。 残置施設で中国が復興したと文句を言うのは、こっちが強盗に入ったのに逃げざるを得なくなったわけで、かなり筋違いと言うべきでしょう。
 でも、当時としては戦争で取ったものは俺のもの、というのは子どもに言っても良い常識だったのでしょうね。

AIKOKU7
(7)銃後にいるというのは庶民にとっても(というより、庶民ほど)どことなく後ろめたい。戦地にいる兵隊さんのお陰で 安全に暮らせるという宣伝が行き届いているからだ。こうして庶民は兵隊さんのためと思えば、無理をしてでも 慰問品を送りたくなるのだった。

AIKOKU8
(8)日本礼賛がこのあたりからかなり強引になってきますねー。電球くらいはまあ罪がないとして、別なページでは黒い眼球は青い眼球より上等 などとも書いてありました。痛いの痛いの飛んでけーで鍛えられた日本人は我慢強いのです。搾取されても文句ひとつ言いません。
 ちなみに八木アンテナの発明は1926年、高柳健次郎のTVも1940年の幻の東京オリンピックめざしてほぼ実用化、1934年湯川秀樹中間子理論発表 と誇るべき事柄はいろいろあるけど、だから世界に冠たる日本とまで言うかどうかはまた別ですね。

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(9)各兵科の装備について。もちろん歩兵騎兵工兵輜重兵のページもあります。輜重輸卒が兵隊ならば蝶々トンボも鳥のうち、などとは間違っても書かれては おりません。『人間の条件』などを読まれた方は「十加」に聞き覚えがあるのでは。

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(10)第一次大戦で使われた毒ガスはたちまち世界を席巻、この時点での最大仮想敵国極東ソ連軍も配備していると仮定していた。もちろん 日本軍は中国で実戦配備して使用もしていた。
しかし、一般家庭のどれだけが防毒面を所有できたのだろう。

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(11)内憂外患にあけくれる中国の様子ですが、結局「卑怯な奴等」共産軍が勝利を収めるとまでは予想していなかったでしょう。漁夫の利 をめざす日本が勝つと本気で思っていたのに違いない。悲しいですねー。
 また、左ページのように南京をはじめ城壁都市が多いのも中国の特徴です。よく言われるように中国に侵攻しても「点と線」 の支配でしかなかったし、また逃げ道の少ない閉鎖された攻城戦や市街戦では、砲撃だけでも非戦闘員を巻き込まずにはいられなかったことは明白です。

AIKOKU12
(12)現役軍人を英雄視する風潮も強まってきました。以前から「満洲事変」の「爆弾三勇士」など「軍神」を崇める 傾向の強かった少倶ですが、暴戻なる支那に連戦連勝というプロパガンダの先頭に立ち、陸軍幼年学校などへも 積極的に勧誘していたのです。現在のマスコミも次第に同様の傾向を見せているのは、お寒い限りですね。
 なお畑俊六氏は戦後A級戦犯の訴追を受け、東京裁判で終身刑の宣告を受け服役、昭和33年(1958)に放免となりその4年後に 没しております。ついに「軍人としてなすべきことをなしただけ」という立場であり、個人として内外の犠牲者、特に中国民衆に対し 慚愧の念を持って謝罪したという記録はないようですね。


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