昭和十八年日記


 昭和20年(1945)3月5日、わたくしの叔父にあたる陸軍一等兵陽吉は、敵に対して一弾も発射せぬまま輸送船ごとフィリピン沖の海底に沈み戦死、空の骨壺だけが帰ってきた。享年20歳。戦後1951年生まれのわたくしはもちろん彼に会ったことはないが、位牌遺影以外にも彼の存在した証は残されている。筆まめな彼が、商業学校入学を機につけはじめた5年間の日記である。ここで紹介するのは、その最後となる昭和18年(1943年)の日記であり、戦時下の青少年の偽らざる心情吐露、あるいは庶民の生活の記録ともいえよう。
 彼の愛用した「博文館當用日記」は紙資源事情により当年をもって発行停止となった。彼のことであるから翌年からは、民間にいるときはもちろん入営後もノートか手帳にでも日常を綴ったものと思われるが、残念ながら未発見のままとなっている。
 
 大正末期から昭和初期にかけてのわが家は、祖父が銀座仕込みの腕のよい洋服仕立屋ということもあり、市長はじめ地方名士の注文は引きも切らず、巨大な「裁ち台」と呼ばれる一枚板の作業台を中心に、若い職人や徒弟が何人も立ち働くという活気ある商家だったそうである。祖父は上客の相手や仕事の指示が終わるとあとは若い者に任せ、昼間から撞球場や映画館に出かけたり鰻屋に上がり込んで好物の蒲焼きを肴に一杯傾けるなど、遊興のほうもなかなか都会的だったという。
 しかし日中戦争が激化し、米英の経済封鎖が始まると羊毛生地の輸入は途絶え、また世相も英国風洋服など注文で仕立てることを許す状況ではなくなってきた。さらに職人たちは次々と軍に招集され、ついには物の役に立たなくなったミシンの並ぶ洋服屋に、祖父だけがひとり、訪れることのない客をぽつんと待つという状態となった。失意の祖父は体調を崩し、わたくしの記憶には、すでに寝たきりで、たまに孫と挟み将棋をするだけという姿しか残っていない。しかし土蔵の中に残されていたタンス一棹には、かつて存在した洋服店の名が金文字で捺された景品の洋服ブラシがぎっしりと詰まっていたことからも、往事の隆盛は窺うことができる。
 
 遊びが達者ということからも推測できるが、祖父にとって蓄財などは念頭になかった。息子たちは成り行きのままそれぞれ好きな道を進ませ、文学かぶれではあるが帝大に行くほどの学力もないわたくしの父は東京の私大に行かせていずれは中学校の国文教師あたりになれば上出来、その弟陽吉は母のお気に入りということもあって地元の商業学校から学力次第では福島高商に進学させ、手元に置いて店を継がせる。そうした目算は、商売が傾くとたちまちにして外れた。
 商店街に店は構えていても土地は借地、他に家産があるわけではないし、スフの既製服や国民服など並べても客はたかが知れている。衣料も配給制となればいよいよ現金収入はゼロに等しい。すでに東京で下宿し、私立大学予科に通学していた父は中退帰郷を余儀なくされ、代用教員として郷里の国民学校に就職する。高商かできれば兄同様に東京の私大進学を希望していた陽吉も、商業学校年限修了と共にこれまた就職と定められた。しかも戦時下措置として実業学校はすべて繰り上げ卒業が指令され、春の訪れを待たず1月には早くも就職先に赴任せねばならない。陽吉の就職先は零戦で名高い中島航空機の関連企業、中島航空金属だった。当時の花形、軍需産業ではあるが陽吉は会社に対する誇りなどは微塵もなく、ただ進学の道を絶たれた無念さだけが17歳の少年の心中に渦巻いていた…。

日記画像  
その1 1月1日〜4月28日
◇その2 4月29日〜8月31日(未作成)
◇その3 9月1日〜12月31日(未作成)


BACK1 inserted by FC2 system